サムライヌードを終えた「いま」-表現することとは何かを再考する-

記事が更新できていない間に、初の舞台主演作品を作り上げていた。「サムライヌード」という舞台である記事が更新できていない間に、初の舞台主演作品を作り上げていた。「サムライヌード」という舞台である。この話については、今日は本題ではないから、そこまで詳しくは述べないことにする。詳しくはXか何かを辿って欲しいと思う。

「うつくしい」とは何か

唐突だが、ドナルド・キーンのあるエッセイについて話したい。小学校の国語教科書に4年間だけ掲載されていた「かなえられた願い 日本人になること」というエッセイがある。はっきり言って、この文章ほど飾り気がなく、かつ美しい文章に出会ったことは過去20年で一度もない。このエッセイが語るのは「言葉の美しさ」である。以下、エッセイの最後を引用する。

日本の皆さんは、もっと自国のことを知るべきです。よい、日本文学を読むこと、そして良い日本語を書くこと。日本の言語文化には、それだけの価値あります。それから少なくとも一つの外国語を学ぶべきでしょう。自分の国を知るためには、外国のことを知らなければならない。自分が常識だと思うことも、他の国では常識ではないかもしれない。日本語にあって、外国語にない言葉や、日本語になくて、外国語にある言葉がある。それを知ることは日本をより深く知ることになるとともに、世界人になるということでもあるのです。そしてこのことこそ、時空を超えて変わらない私たちすべての人間にとっての真実だと思うのです。

平成27年度版 光村図書「国語 小6」ドナルド・キーン「かなえられた願い 日本人になること」より引用

これが小学校の国語の教科書の最後に掲載されているのである。そう、なぜ国語を学ぶかの納得解を教科書は提供しているのだ。今回稽古をしながらこの一節を思い出し続けた。

「美しい」とは「よい」ことである。ではそれはどのように定義されるのか。少なくとも僕は、いわゆる「ポエム」のような着飾った言葉を美しいとは思えない。僕は等身大の着飾らない言葉で、相手の感情を直接揺さぶる言葉が「美しい言葉」と定義している。その「美しい言葉」を紡ぎ出すことが、「表現者の宿命」であると考えている。

「表現」することと「言葉を発する」こと

「表現」とは、国語辞典によれば次のように定義される。

内面的・精神的・主体的な思想や感情などを、外面的・客観的な形あるものとして表すこと。また、その表れた形である表情・身振り・記号・言語など。特に、芸術的形象たる文学作品(詩・小説など)・音楽・絵画・造形など。大辞林による

まずは「僕」という視点から考えてみよう。目指すべきは「芸術的形象たる」方向性だ。特に演劇において、「表現する」という行為は「言葉を発する」ことと同一視されがちだ。しかし、「表現する」という言葉が別途存在する以上、そこには明確な差異があるはずだ。その「差異」について探ってみたい。

舞台では約2時間、決められた行動と言葉を連続して発することになる。そしてその言葉は「美しく」なければならない。なぜなら、観客の感情を動かすために入念に準備された言葉だからだ。

つまり、「表現する」ことと単に「言葉を発する」ことの決定的な違いは、「美しい言葉」を「美しく」発するという一点に集約される。これが私の考えだ。この観点から「棒読み」という現象も説明できる。

表現することとは何か

以上のことから「表現する」こととは「誰かの感情を動かそうとする」ことではなかろうか。ただこの言葉を使ってしまうと、「感動させること」というように解釈されてしまう。そこで僕は次の言葉を付け加えてみようと思う。受け手の移動する感情を定義せずに、という言葉を付け加えるだけで「感動させること」を排除することが可能であろう。

つまり「表現する」とは、演劇的意味において「誰かの感情を動かそうとすること」である。そして動かす位置を定義しないことこそ「表現すること」である。

表現者は「表現する」結果がどのようになるかを予測することは、ほとんど意味のないことなのではないかと思った。「サムライヌード」もやっている身から考えてみると、よい作品だとは思うが、果たしてこの作品で感動するのか、涙を流すのかは最後までわからなかった。逆にわかってしまえば、それはそれで「つまらない作品」になってしまうのではなかろうか。(決して感動できなかった作品だとか、そう言うことを述べているのではない。感動できる、させられると自覚する作品になってしまってはいけないのではないか、と言う問題提起であると言うことは補足する。)

僕はどこへ向かうのか

僕の性格から分析するに、僕は表現なしには生きていけないであろう。そしてそれを表現することは、誰かの力になると信じている。だからこそ、考えることは生きること、生きることは考えること、考えることは表現すること、表現することは考えること。故に生きることは表現すること。それだけを信じていくしかないと思っている。そして、表現することとは「分かり合えないことをわかり合おうとする」ことだと思っている。

五里霧中だとしても、自分の感覚を信じて、ただ前に進むだけではないだろうか。それしかできないと思っている。どのみち人間なんかその程度しかできないだろうし。

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