前回から日本政治史を概観してきています。今回は70年代から2000年代初頭までを見ていきましょう。前回の記事はこちら。
安定成長期と政治改革:1970年代から1980年代の日本政治
1973年のオイルショックを契機に、日本経済は高度成長期から安定成長期へと移行しました。この時代の政治状況を理解することは、現代日本政治の基盤を知る上で非常に重要です。
田中角栄と金権政治
1972年に首相となった田中角栄は、「日本列島改造論」を掲げ、地方開発を推進しました。地方出身の田中は「庶民宰相」として人気を集める一方で、政治と金の問題も深刻化しました。
田中政権の特徴:
- 地方開発と公共事業の拡大
- 「金脈政治」と呼ばれる政治資金問題
- 日中国交正常化の実現(1972年)
しかし、不動産投機や地価高騰を招いたことへの批判も高まり、さらに金権政治の象徴として、後のロッキード事件へとつながっていきます。
中曽根政権と行政改革
1982年から1987年まで続いた中曽根康弘政権は、「戦後政治の総決算」を掲げ、新自由主義的な改革を推進しました。特に行政改革と国鉄民営化は重要な政策でした。
中曽根政権の主な政策:
- 三公社(国鉄、電電公社、専売公社)の民営化
- 小さな政府を目指した行政改革
- 日米関係の強化(「ロン・ヤス関係」)
- 教育改革の推進
これらの改革は、後の小泉構造改革の先駆けとなり、日本の行政システムを大きく変えました。
ロッキード事件とリクルート事件
この時期、日本政治を揺るがす大型の政治スキャンダルが相次ぎました。
ロッキード事件(1976年):
- アメリカの航空機メーカー・ロッキード社が、日本への航空機販売をめぐり多額の賄賂を支払っていた事件
- 田中角栄元首相が逮捕・起訴され、政界に大きな衝撃を与えた
- その後も田中は「影の総理」として政治的影響力を保持
リクルート事件(1988年):
- リクルート社が政財界の有力者に未公開株を譲渡し、便宜を図ってもらった事件
- 竹下登内閣の閣僚を含む多くの政治家が関与
- 政治と金をめぐる問題の深刻さを再認識させた
これらの事件は、日本の政治腐敗への批判を高め、後の政治改革の大きな原動力となりました。
野党の動向と連合政権構想
自民党長期政権下での野党は、社会党を中心に活動していましたが、社会主義の退潮と共に変化を迫られていました。
この時期の野党の動き:
- 社会党の苦境と路線転換の模索
- 1986年の民社党・公明党による「新々連合」構想
- 1989年の参議院選挙での自民党敗北
- 非自民連立政権への道筋
これらの動きは、1990年代の政治改革と55年体制の崩壊へとつながっていきます。
この時期の日本政治は、高度経済成長の終焉と安定成長への移行、政治スキャンダルの続発、行政改革の推進、そして野党再編の動きなど、多くの変化に直面しました。これらの変化は、後の政治改革と自民党一党支配の終焉への伏線となったのです。
1990-2000年代の政治改革とポスト冷戦期
バブル崩壊と政治的混乱
1990年代初頭、日本経済はバブル崩壊という未曾有の危機に直面しました。1989年末から始まった株価の暴落と、その後の地価下落は、日本経済の基盤を揺るがしました。
この経済危機は政治にも大きな影響を与えました。自民党は経済政策の失敗を批判され、政治とカネの問題も相まって、1989年の参議院選挙で敗北。さらにリクルート事件などの政治スキャンダルも重なり、自民党一党支配体制の終焉が近づいていました。
1993年の総選挙では自民党が過半数を割り込み、戦後初の非自民連立政権誕生への道が開かれました。
細川連立政権と政治改革
1993年8月、細川護熙を首班とする非自民8党連立政権が誕生しました。これは1955年以来続いてきた「55年体制」の終焉を意味する歴史的な出来事でした。
細川政権の最大の課題は政治改革でした。特に選挙制度改革と政治資金規正法の改正が中心課題となりました。細川首相は「政治改革なくして行政改革なし」との信念のもと、改革を推進しました。
しかし、連立与党内の意見対立や政策相違から政権基盤は脆弱で、わずか9ヶ月で退陣。その後も羽田政権、村山政権と短命政権が続き、政治的不安定さが続きました。
小選挙区比例代表並立制の導入
細川政権の最大の功績は選挙制度改革でした。従来の中選挙区制から小選挙区比例代表並立制への移行が実現しました。
この改革のねらい:
- 政権交代可能な二大政党制の実現
- 政策本位の選挙の促進
- 「カネのかからない選挙」の実現
1996年の総選挙で初めて新制度が適用され、自民党は単独過半数には届かなかったものの、第一党として政権に復帰しました。この選挙制度改革は日本の政党システムに大きな変化をもたらし、後の民主党の台頭と2009年の政権交代の土台となりました。
橋本行革と省庁再編
1996年から1998年まで続いた橋本龍太郎政権は「6つの改革」を掲げ、特に行政改革に力を入れました。
橋本行革の主な内容:
- 中央省庁の再編(1府22省庁から1府12省庁へ)
- 内閣機能の強化(内閣府の設置)
- 政策評価制度の導入
- 独立行政法人制度の創設
これらの改革は2001年に実施され、明治以来の行政機構に大きな変革をもたらしました。特に内閣機能の強化は、後の小泉政権における「官邸主導」の政治スタイルの基盤となりました。
この時期の日本政治は、冷戦終結という国際環境の変化と国内のバブル崩壊という経済危機の中で、戦後政治の枠組みを大きく変える改革が進められました。政治改革、行政改革を通じて、日本の統治機構は大きく変容し、現代日本政治の基盤が形成されたのです。
小泉改革と二大政党制への模索(2001-2009年)
小泉純一郎と構造改革
2001年4月、自民党総裁選で「自民党をぶっ壊す」という過激なスローガンを掲げた小泉純一郎が勝利し、首相に就任しました。小泉首相は「聖域なき構造改革」を掲げ、従来の自民党政治の特徴であった公共事業中心の経済政策からの脱却を図りました。
小泉改革の主な特徴は:
- 「官から民へ」をスローガンとした市場原理の導入
- 財政再建と規制緩和の推進
- 特殊法人改革と公共事業の削減
- 「骨太の方針」による経済財政運営
また、小泉政権は「官邸主導」の政治スタイルを確立し、従来の族議員や官僚主導の政策決定過程を変革しました。経済財政諮問会議を活用した政策立案や、内閣府の機能強化により、首相のリーダーシップが強化されました。
郵政民営化と自民党分裂
小泉政権の最大の争点となったのが郵政民営化でした。日本郵政公社(当時)は世界最大の金融機関とも言われ、その巨額の資金が財政投融資を通じて公共事業に投入される「第二の予算」として機能していました。
小泉首相は2005年、郵政民営化法案が参議院で否決されると、衆議院を解散。「郵政民営化に賛成か反対か」を争点とした総選挙(いわゆる「郵政選挙」)を行いました。選挙では郵政民営化に反対した自民党議員を「刺客」を送り込んで落選させるという前例のない選挙戦略をとりました。
選挙結果は自民党の圧勝となり、小泉首相は郵政民営化法案を成立させることに成功しました。しかし、この過程で自民党は分裂し、後に民主党勢力拡大の一因となりました。
政権交代への道
小泉首相は2006年9月に退陣し、その後は安倍晋三、福田康夫、麻生太郎と短命政権が続きました。この間、2007年の参議院選挙で自民党は大敗し、「ねじれ国会」が生まれました。
一方、野党第一党の民主党は、2003年に旧民主党と自由党が合併して以降、勢力を拡大。2003年総選挙、2004年参院選、2005年総選挙と徐々に議席を増やし、2007年参院選では第一党に躍進しました。
2008年のリーマンショックによる経済危機や、政治とカネの問題、社会保障への不安など様々な要因が重なり、自民党政権への不満が高まりました。そして2009年8月の総選挙で民主党が圧勝し、戦後初の本格的な政権交代が実現しました。
この時期は、小選挙区制導入後の日本政治が二大政党制へと向かう過程であり、55年体制から続いた自民党一党優位の政治システムが大きく変容した時代でした。小泉改革の功罪や政権交代の意義については、今日も政治学者や経済学者の間で活発に議論されています。

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